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シヌヘの物語AGIラボ現代日本語訳

この本の概要

シヌヘの物語

AGIラボ現代日本語訳

約3900年前のエジプト中王国に書かれ、エジプト文学の最高傑作と讃えられる物語。アメンエムハト1世崩御の混乱の夜、密使の言葉を立ち聞きした廷臣シヌヘは、理由も告げずに国を捨てて逃げる。シリア・パレスチナの地レテヌで族長にまで上りつめ、豪傑との一騎打ちを制した男が、老いて願うのはただひとつ、故郷の土に葬られることだった。センウセレト1世の恩赦の勅書が届いた日、シヌヘは砂塵を髪に振りかけて踊り上がる。逃亡と望郷、恩赦と再生。一人称で語られるこの人間の物語は、成立から500年を経てもなお書き写され続けた古代のベストセラーである。

『シヌヘの物語』の表紙
『シヌヘの物語』の表紙

この本の概要

シヌヘの物語

AGIラボ現代日本語訳

約3900年前のエジプト中王国に書かれ、エジプト文学の最高傑作と讃えられる物語。アメンエムハト1世崩御の混乱の夜、密使の言葉を立ち聞きした廷臣シヌヘは、理由も告げずに国を捨てて逃げる。シリア・パレスチナの地レテヌで族長にまで上りつめ、豪傑との一騎打ちを制した男が、老いて願うのはただひとつ、故郷の土に葬られることだった。センウセレト1世の恩赦の勅書が届いた日、シヌヘは砂塵を髪に振りかけて踊り上がる。逃亡と望郷、恩赦と再生。一人称で語られるこの人間の物語は、成立から500年を経てもなお書き写され続けた古代のベストセラーである。

世襲の君侯にして王の印璽をあずかる者、親しき友、判官、異国の民の門を守る者、王がまことに愛する知己、王の従者シヌヘは語る。

わたしは主君に付き従う従者であり、王の後宮に仕える侍臣であった。世継ぎの妃、大いに寵愛された方、センウセレト王の妃にしてアメンエムハト王の娘である、尊き王妃ネフェルにお仕えしていたのである。

0108

王の死と逃亡

王の死

治世第30年、パオフィの月の7日。神はその地平線にお入りになった。王セヘテプイブラーは天へ飛び立ち、太陽の円盤とひとつになり、神の御体はおのれを生んだ方と交わった。王宮は静まり返り、人々の心は喪に沈み、二つの大門は閉ざされた。廷臣たちは膝に頭をうずめてうずくまり、民は声をひそめて嘆いた。

使者の声

そのころ陛下は、貴族たちを従えた大軍を、リビアの民テメフの地へ送っておられた。軍を率いるのは世継ぎの王子、善き神センウセレトである。王子は今しも、生きた捕虜と、数えきれぬあらゆる家畜を引き連れて帰還する途上にあった。宮廷の重臣たちは西の地へ人を遣り、宮中で起きた出来事を王子に知らせようとした。使者は道の途中、日暮れどきに王子のもとへたどり着いた。一刻を争う知らせだった。「隼が、従者たちとともに飛び立った」。使者はそう告げるにとどめ、軍には決して知らせなかった。この軍を率いる王子たちに言伝が届いても、その誰にも語ってはならなかったのである。

だが、わたしはそのすぐそばに立っていて、使者の語る声を聞いてしまった。わたしの心は乱れ、両腕はだらりと落ち、全身がわなわなと震えた。わたしは跳びのくように駆け出して身を隠す場所を探し、二つの茂みのあいだに身を投げて、道行く者らが通り過ぎるのを待った。

南への逃走

それからわたしは南へ向かった。王宮へ戻ろうとは思わなかった。戦が起きるかどうかも分からず、この王亡きあとを生きようという気さえ、起きなかったのである。

わたしはシカモアの木に背を向け、シ・セネフェルにたどり着き、開けた野で一夜を過ごした。夜が明けるとまた歩き出し、道の端を行くひとりの男に追いついた。男はわたしを恐れて、慈悲を乞うた。夕餉のころ、ケルアハウの町に近づき、舵のない筏で川を渡った。西風に運ばれて東岸に着き、アクの石切り場の傍らを過ぎ、赤い山の女主ヘリト女神の地を過ぎた。それから足を北へ向けて歩き続け、アジアの民を防ぐために築かれた「支配者の壁」に行き着いた。塁壁の上には、日ごとに交代する見張りが立っている。見つかることを恐れて、わたしは茂みに身をかがめた。夜になってから歩を進め、日が昇るころにペテンに着いて、ケムウェルの谷へと歩を向けた。

夜明け前の国境で、若いシヌヘが塁壁の見張りを避け、茂みに身をかがめて東の荒野へ逃れようとしている
見つかることを恐れて、わたしは茂みに身をかがめた

死の味

そのとき、渇きがわたしに襲いかかった。体は干からび、喉は塞がり、わたしは思った。「これが死の味か」。それでも心を奮い立たせ、手足に力をかき集めた。そのとき、人の声と家畜の鳴き声が聞こえたのである。アジアの遊牧民たちだった。彼らの長は、かつてエジプトにいたことのある男で、わたしが誰であるかに気づいた。見よ、彼はわたしに水を与え、乳を沸かして飲ませ、おのれの野営地へ連れて行ってくれた。彼らはよくしてくれた。こうして部族から部族へとわたしは送り継がれ、ビブロスを発ち、ケデムの地にたどり着いた。

砂漠で渇きに倒れかけた若いシヌヘに、遊牧民の長が水の器を差し出し、背後に家畜と簡素な野営が見える
彼はわたしに水を与え、乳を沸かして飲ませた

0208

レテヌの地で

レテヌの長の問い

その地で半年を過ごしたころ、上レテヌの長アムアンシが人をよこして言った。「わたしのもとで暮らすがよい。ここならエジプトの言葉が聞ける」。そう言ったのは、わたしの器量を知り、わたしの評判を耳にしていたからである。彼のもとにいたエジプトの人々が、わたしのことを証言したのだった。

彼はわたしに尋ねた。「いったい何があって、ここまで来られたのか。都で何事か起きたのか。上下二国の王セヘテプイブラーは、天に昇られたのか。あのことの子細を、誰も知らないのだ」。わたしは言葉を濁して答えた。「テメフの民の地から戻ったとき、わたしの中で何かが変わってしまったのです。逃げたとはいえ、悔いるべきことをしたからではありません。務めを怠らず、口から苦い言葉を漏らさず、悪しき謀りごとに耳を貸したこともなく、わたしの名が役人の口の端にのぼったこともない。なぜこの地へ導かれたのか、自分でも分からないのです」。

するとアムアンシは言った。「それは神の御心によるものであろう。あの優れた神を知らぬ国など、どうしてあり得ようか。疫病の年に女神セクメトを恐れるように、異国の民はあの方を恐れているのだから」。

新王への讃歌

わたしは彼に答えて言った。「まことに。その御子が今や宮殿に入り、父君の跡目を継がれました。彼は並ぶ者なき神であり、彼の先に立つ者はおりません。知恵の主にして、その謀りごとは深く、その命令は優れ、行く者にも来る者にも御心を配られます。父君がなお宮殿におられたうちから異国を従え、父君の定められたことを成し遂げて復命された方です。

まことに剣をもって討つ勇者、比べる者なき豪の者。蛮族に躍りかかり、掠める者どもに身を投じる方。敵の角をへし折り、その手を萎えさせ、討たれた者はもはや盾を掲げることもできません。恐れを知らず、敵の頭を打ち砕き、その御前に立ちおおせる者はない。逃げる者を討つその足は速く、背を向けた者は誰ひとり、おのれの家にたどり着けません。攻めきわまるときにも心は堅く、爪をもって打ちかかる獅子であって、一度たりとも背を見せたことがない。その心は憐れみに閉ざされ、大軍を目にすれば、あとに一人も生かして残しません。抵抗を見ればまっさきに躍り出る勇士、蛮族に飛びかかることを喜びとする戦人です。盾をつかんで突き進み、二度打つまでもなく討ち果たし、その槍をかわしうる者はない。弓を引き絞れば、蛮族は犬の群れのようにその腕の前から逃げ散ります。偉大なる女神が、おのれを知らぬ者どもを討てと、その力をお授けになったのです。攻めれば容赦なく、あとには何も残しません。

しかもこの方は、この上なく甘やかな、愛される友であり、人の愛を得るすべを知っておられます。その国は彼をおのれ自身よりも愛し、おのれの神にもまして彼を喜び、男も女もその呼び声に駆け寄ります。王として生まれながらに国を治め、生まれながらに民を増やしてこられました。ただひとりの方、神が与えられた方であり、この国は彼に治められることを喜んでいるのです。南の国境は広げても、北の地を欲しがりはなさいません。アジアの民を討つことも、砂漠を渡る民を踏み砕くこともなさらないでしょう。

使いを送り、あなたの名を知っていただきなさい。陛下に対して悪しざまな言葉は慎まれますように。従う国に恵みを拒むことのない方なのですから」。

イアアの地

アムアンシはわたしに答えた。「なるほどエジプトは幸せな国だ、王がたしかな方だと知っているのだから。だが、あなたは今ここにいる。わたしとともに暮らすがよい。あなたを厚く遇しよう」。

彼はわたしをおのれの子らの上に立て、長女をわたしにめあわせた。そして彼の領地の中から、隣国との境にある最も良い土地を、わたしに選ばせてくれた。イアアという名の、美しい土地である。そこにはイチジクがあり、ブドウがあり、水よりもワインのほうが豊かだった。蜂蜜はあふれ、オリーブの木は数多く、あらゆる果実が木々に実っていた。大麦も小麦もあり、家畜は種類も数も限りがなかった。まことに大きな恵みであった。長はわたしを部族の長に立て、その国の最も良い土地を与えてくれたのだ。日々の糧としてパンとワインがあてがわれ、煮た肉と焼いた鳥が並び、そのうえ砂漠の獲物もあった。人々が獲って供えてくれるものに、わたしの猟犬が捕らえてくるものも加わった。バターがたくさん作られ、乳の料理があらゆる仕立てでこしらえられた。

壮年のシヌヘが家族とともに、イチジクとブドウの木、穀物、家畜に恵まれたイアアの土地を見渡している
長はわたしを部族の長に立て、その国の最も良い土地を与えてくれた

異国での栄達

こうして多くの年月が過ぎた。子どもたちは育ってたくましい男となり、それぞれがおのれの部族を従えた。都へ上り下りする使者は、わざわざ道をそれて、わたしのもとに立ち寄ったものである。わたしがすべての旅人をもてなしたからだ。喉の渇いた者には水を与え、道に迷った者は道へ戻し、奪われた者は救い出した。よその国の君侯たちを討ちに遠く出るアジアの民があれば、その往き来を指図したのはわたしである。レテヌの長は長年にわたり、わたしをその軍の将としたのだ。わたしはどの国を攻めても勇者としてふるまい、家畜を奪い、隷属の民を引き立て、奴隷をさらい、人々を討った。わたしの剣と弓によって、わたしの行軍と巧みな策によって。長の心はわたしを良しとした。彼はわたしの武勇を知ってわたしを愛し、この腕の強さを見て、おのれの子らの上にわたしを立てたのだった。

0308

豪傑との一騎打ち

豪傑の挑戦

あるとき、レテヌの豪の者がわたしの天幕まで来て、戦いを挑んだ。並ぶ者なき勇士で、レテヌの国をことごとく打ち負かした男である。男は「シヌヘとわたしを戦わせよ」と言った。わたしを打ち倒し、わたしの家畜をおのれの部族のものにしようと目論んでいたのだ。

長はわたしと相談した。わたしは言った。「あの男のことは知りません。わたしは彼の仲間などではなく、その陣屋に出入りしたこともない。わたしが彼の戸を開けたことがあったでしょうか。その囲いを乗り越えたことがあったでしょうか。わたしを見て、ねたみ心を起こしているだけのことです。わたしを、雄牛に打ち倒される、雌牛の群れの中の去勢牛だとでも思っているのでしょうか。あれが、わたしを食い物にして富もうというあさましい男にすぎず、戦いにふさわしい真の男でないのなら、この件は裁きにかければよろしい。まことの雄牛は戦いを好みますが、見栄坊の牛は、勝負を恐れて背を向けるもの。あの男に戦う心があるのなら、思うところを言わせなさい。神は、御自ら定められたことをお忘れになるでしょうか。定めのほどは、誰にも分からないのですから」。

決闘

わたしは横になって休んだ。それから弓に弦を張り、矢を整え、短剣を抜き放ち、武具を磨き上げた。夜が明けると、レテヌ中の民が押し寄せてきた。部族という部族がかき集められ、近隣の民までもが呼ばれて、人々の口には、この決闘のことしかのぼらなかった。どの心もわたしのために燃え、男も女も声を上げた。誰の心もわたしを案じて、人々は言った。「あの男と戦える強者が、ほかにいるものだろうか。見よ、相手は盾と戦斧を持ち、腕いっぱいの投げ槍を抱えているのだ」。

やがて、わたしは彼を誘い出した。放たれる矢をそらすと、矢はむなしく地に突き立った。互いの間合いが詰まり、彼がわたしめがけて突きかかってきた、その刹那、わたしは彼を射た。矢は彼の首に深々と立った。男は叫び声を上げ、うつぶせに倒れた。わたしは彼自身の槍でとどめを刺し、その背を踏んで勝ち鬨を上げた。国じゅうの男たちが歓声を上げるなか、わたしと、男に虐げられてきた下の者たちは、軍神メンチュに感謝を捧げた。長アムアンシは、わたしを抱きしめた。

壮年のシヌヘが決闘相手を矢で倒し、相手の槍を手にその背を踏んで勝ち鬨を上げ、周囲の民が歓声を上げている
わたしは彼自身の槍でとどめを刺し、その背を踏んで勝ち鬨を上げた

そしてわたしは男の財を運び去り、その家畜を奪った。彼がわたしにしようと企んだことを、そっくりそのまま、わたしが彼にしてやったのである。天幕の中のものを取り、その住まいを剥ぎ尽くした。こうしてときが経つほどに、わたしの財はいよいよ豊かになり、家畜はいよいよ増えていった。

0408

望郷の祈り

境遇の逆転

見よ、神は、御心にすがったこの身に、このようにしてくださった。かつて逃げ出したこの者は、いま、その名を王宮に知られている。かつて飢えて這うように行ったこの者は、いま、まわりの者にパンを分け与えている。かつて裸で国を捨てた男は、いま、上等の亜麻布をまとっている。かつて使いに出す者ひとりない流浪の身だった男は、いま、多くの召し使いを抱えている。わたしの家は美しく、わたしの領地は広く、わたしの名は、神々の宮にまで留められている。

老いと願い

それでも、どうか、あの逃亡をお赦しください。ふたたび王宮に召され、この心の住まうあの場所を、この目で見られますように。生まれた土地でこの身が葬られること、それにまさる幸いがあるでしょうか。帰ること、それこそが幸せなのです。わたしはそれを願って、神に供物を捧げてきました。異国へ逃れた者の心は苦しみます。遠くにある者の祈りを聞き届け、生まれた場所へ、離れてきたあの場所へ、帰らせてください。

白髪の混じる老いたシヌヘが、異国の簡素な祭壇へ供物を捧げ、遠くナイルの岸と王都を思いながら帰還を祈っている
生まれた場所へ、離れてきたあの場所へ、帰らせてください

エジプトの王がわたしに恵みを垂れ、その恵みのもとで生きられますように。宮殿におられる国の女主人にごあいさつを申し上げ、その御子たちの消息を聞くことができますように。そうすれば、この手足はふたたび若返るでしょう。いまや老いが訪れ、衰えがこの身を捉えました。目は重く、腕は萎え、脚はもう歩みに従わず、心は疲れています。死がわたしに近づき、やがてわたしは永遠の都へと導かれるでしょう。願わくは、かつてお仕えした、すべての女主人たるあの王妃に、ふたたび従うことができますように。御子たちの立派なさまを、その御口から聞かせていただけますように。永遠を、わたしの上で過ごしてくださいますように。

0508

王の勅書

王都からの贈り物

さて、ケペルカラー王、恵み深き陛下に、わたしのこの願いが伝えられた。すると陛下は、王の贈り物を携えた使いを、わたしのもとへ送ってくださった。異国の王侯に贈られるにも劣らぬ品々で、このしもべの心を晴れやかにしてくださったのである。宮殿におられる王子たちからも、便りが届いた。

勅書

わたしをエジプトへ連れ戻すために届けられた、勅書の写しは次のとおりである。

「ホルスなる「諸誕生の命」、二女神の主なる「諸誕生の命」、上下エジプトの王ケペルカラー、太陽の子センウセレト、とこしえに生きる方より。王の従者シヌヘへの勅令である。見よ、王のこの命令があなたに届けられるのは、次のことを知らせるためである。

あなたはケデムからレテヌへと異国をめぐり、おのれの心の促すままに、国から国へと渡り歩いた。だが、あなたがいったい何をしたというのか。何かをされたとでもいうのか。あなたは王を謗ったわけではない。あなたの言葉が退けられたわけでもない。重臣たちの評議で発言を求められたときにも、進んで語らなかった、ただそれだけのことではないか。心に浮かんだあの考えが、あなたを連れ去ったにすぎない。あなたの「天」であられるあの方は、いまも宮殿におられる。今日も変わらずお健やかで、国の統治に列しておられ、その御子たちは宮殿の奥にある。あなたは彼らの与える見事な品々を受け、その贈り物によって生きるがよい。

エジプトへ帰って来るがよい。あなたが育った王都を見るがよい。二つの大門の前で大地に口づけし、廷臣たちの列に加わるがよい。いまやあなたは老いはじめ、力は衰え、埋葬の日のことを思う齢となった。あなたは尊き身分へと至るのだ。埋葬の香油が注がれる夜には、タイト女神の手になる包帯があなたに巻かれる。埋葬の日には葬列があなたに付き従い、人々は墓に詣でる。棺は金に包まれ、その頭部は青く彩られ、上には糸杉の天蓋が掲げられる。牛たちがあなたを曳き、楽人たちが先を行き、墓の入り口では葬いの舞が舞われる。供物の祈りが読み上げられ、墓穴の入り口では犠牲が屠られる。そしてあなたのピラミッドは白い石で築かれ、王子たちのピラミッドに連なるのだ。あなたは異国で死ぬのではない。アジアの民があなたを葬るのでもない。羊の皮にくるまれて埋められることも、二度とない。あなたが墓に行く日、人々はみな地を打ち、あなたの亡骸のために嘆くだろう」。

歓喜

この勅書が届いたとき、わたしは部族の民に囲まれて立っていた。それが読み上げられると、わたしは地にひれ伏し、砂塵に身を投げて、それを髪に振りかけた。そして野営のうちを跳ね回り、歓びの声を上げた。「叛き心を抱いて異国へ逃れたこのしもべに、このようなことがなされるとは。死からわたしを救い出す、なんと見事な、慈悲深いお救いだろう。あなたの御心によって、わたしは王宮でこの生涯を終えることができるのだ」。

0608

シヌヘの返書

神々への祝福

この勅令への返書の写しは、次のとおりである。

「王宮のしもべシヌヘは申し上げます。この上なく麗しき平安のうちに。このしもべが分別を失って行ったあの逃亡は、御身の魂の御存じのところとなりました。善き神、二つの国の主、ラーに愛され、テーベの主メンチュの寵を受ける方よ。国々の玉座の主アメン、ソベク、ラー、ホルス、ハトホル、アトゥムとそれに連なる神々、ソプドゥ、ネフェルバウ、セムセトゥ、東方の主ホルス、御頭の上に君臨する王権の蛇なる女神、水の中なる神々の長、砂漠のホルスなるミン、プントの女主ウリト、ヌト、ハルネクト、ラー、エジプトの国のすべての神々と、海の島々の神々よ。願わくは、その方々が御身の鼻に命と平安を与えられますように。その賜物を御身に惜しみなく授けられますように。果てなき永遠と、限りなき永劫を御身に与えられますように。御身への畏れが砂漠の国々にあまねく行き渡り、太陽の円盤のめぐるかぎりの地が、御身に従えられますように。これは、異国から救い出されたこのしもべが、その主君に捧げる祈りでございます。

知恵の主なる王よ。至高の陛下の知恵をもって語られる賢き言葉を、このしもべは畏れながら申し上げるほかありません。それを口にするのは、あまりに大きなことだからです。おのれの手がけたことを必ず成し遂げられる、ラーにも似た偉大なる神よ。わたしごとき者のために、御心を砕いてくださるとは。御身が心にかけ、慮ってくださる者の列に、このわたしが入っているのでしょうか。陛下は勝利のホルス。御身の腕の力は、すべての国々に及びます。

弁明

願わくは陛下、アドマのメキ、ケンティ・ケシュのケンティアウシュ、フェンクの二つの国のテヌスを召し寄せてくださいますように。彼らは名のある君侯であり、御身を慕うがゆえに、わたしの身に起きたことをすべて証言してくれましょう。レテヌの国のことは、申すまでもありません。この国は御身の犬と同じく、御身のものなのですから。

このしもべが行ったあの逃亡を申し上げれば、あれは心に企てたことではありませんでした。この胸のうちにはなく、思い描いたことすらありません。何がわたしをあの場所から引き離したのか、自分でも分からないのです。それは夢に導かれるようなものでした。デルタの男が、ふと気づけばエレファンティネにいるような。エジプトの平野の男が、ふと気づけば砂漠にいるような。恐れがあったわけではなく、追っ手がかかったのでもない。悪しき謀りごとを聞いたのでもなく、わたしの名が役人の口の端にのぼったのでもない。それなのに、この手足はひとりでに動き、脚はさまよい出し、心がわたしを引いていったのです。この逃亡を定めた神が、わたしを引いて行かれたのです。わたしはもとより、頑なに背く者ではありません。おのれの国を知る者は、誰しも畏れをいだくもの。ラーは御身への畏れをこの国に、御身への恐れをあらゆる異国に行き渡らせられました。わたしが王宮にいようと、この場所にいようと、地平線のすべてを覆っておられるのは御身です。太陽は御心のままに昇り、川の水は御身の望まれるときに飲まれ、天の風は御身の仰せのままに吸われるのです。

わたしがこの地で得たものは、あとに続く世代に遺してまいります。こちらへ参られた使者のことも、どうか陛下の御心のままになさってください。人は、御身の与えてくださる息によってこそ生きるのですから。ラーに、ホルスに、ハトホルに愛される方よ。テーベの主メンチュは、御身の尊き鼻がとこしえに生きることを望んでおられます」。

0708

帰郷

イアアの引き継ぎ

わたしはイアアで宴を開き、財産をわが子たちに引き渡した。長男が部族を率いることになり、わたしの財はすべて彼のものとなった。穀物も、家畜という家畜も、果実も、実りをつける木という木も、ことごとくである。

それからわたしは南への道をとり、ホルスの道にたどり着いた。国境の守備隊を率いる隊長が、知らせの使いを王都へ送った。すると陛下は、王領の農民をつかさどる有能な監督官を遣わされた。そのあとには、わたしを送り届けてくれたアジアの民への、王の贈り物を満載した船が続いていた。わたしは彼らの一人ひとりを名で呼び、それぞれに贈り物を手渡した。あいさつを受けてはあいさつを返し、そうして旅を続けて、ついに王都イチタウイの地に着いたのである。

王宮へ

地が明るみ、新しい朝が来ると、わたしを召しに四人の男がやって来た。四人はわたしを王宮へ導いていった。わたしは両手を地について拝礼した。王子たちが中庭に立って、わたしを迎え入れてくれた。謁見の間へ案内する役の廷臣たちが、わたしを王の御座所への道へと導いた。

陛下は、淡い金色の大広間の、大いなる玉座の上におられた。わたしはその御前で腹ばいにひれ伏した。この神は、わたしのことがお分かりにならなかった。陛下は優しく言葉をかけてくださったのに、わたしは、にわかに目の見えなくなった者のようだった。魂は飛び去り、手足はくずおれ、心臓はもはや胸の中になく、わたしには、おのれが生きているのか死んでいるのかも分からなかった。

淡い金色の王宮広間で、老いたシヌヘが大いなる玉座の王の前に腹ばいにひれ伏し、廷臣たちが静かに見守っている
わたしはその御前で腹ばいにひれ伏した

謁見

陛下は近侍のひとりに言われた。「彼を助け起こせ。わたしと話をさせよう」。そして陛下は言われた。「見よ、あなたは帰って来た。異国の砂漠を踏みしめ、さすらいを重ねてきたのだ。老いはすでにあなたを襲い、その身は衰えの齢に達した。あなたの亡骸がきちんと葬られ、蛮族の手に埋められずに済むこと、それは小さなことではないのだ。黙っていてはならぬ、黙っていてはならぬ。名を告げよ。恐れが口をふさいでいるのか」。

わたしは答えて申し上げた。「恐ろしいのでございます。主君のお言葉に、何とお答えすればよいのか。神の御手をないがしろにしたことはありません。ただ、この身のうちに恐れがあるのです。あの定められた逃亡を生んだのと同じ、たちまち人を死に至らせるほどの恐れが。いま、わたしは御前におります。御身は命そのもの。陛下の御心のままになさってくださいませ」。

王子たちの歌

やがて王子たちが招き入れられた。陛下は王妃に言われた。「ご覧、シヌヘだ。アジアの民となり、遊牧の民に生まれ変わって帰って来た」。王妃はひときわ高い叫び声を上げ、王子たちも声をそろえて叫んだ。そして陛下に申し上げた。「王よ、わが主よ、まことにあの者でございますか」。陛下は言われた。「まことに、あの者だ」。

そこで王子たちは、首飾りと、笏と、シストラムの鈴を手に取り、陛下の御前に掲げて歌った。

「御手が良きものの上にありますように、久遠の王よ。それは天の女主人の飾り。黄金の女神が御鼻に命を授け、星々の女主人が御身に寄り添われますように。南の冠は北へ下り、北の冠は南へ上り、御言葉のうちにひとつに結ばれました。御額にはウラエウスの蛇が据えられ、あなたは貧しき者を災いから遠ざけられます。あなたに安らぎあれ、国々の主なるラーよ。すべての女主人をたたえるように、人々はあなたを呼ばわります。御角を緩め、矢をお納めください。息を持たぬ者に、息をお与えください。そしてこの旅人に、良き贈り物をお授けください。エジプトの地に生まれながら、異国の民となったこのシヌヘに。御身への恐れゆえに逃げ、御身への畏れゆえにこの国を去った者に。御顔を仰いだ者の顔が、なお青ざめましょうか。御身を見つめた目が、なお恐れましょうか」。

陛下は言われた。「彼は恐れなくてよい。畏れから解き放たれるがよい。彼は重臣に列する王の友となり、廷臣たちの輪に加えられる。皆の者、彼を誉れの間へ連れて行き、その身なりを整えてやるがよい」。

0808

王都での再生

王子の館

わたしが王の御座所を退出すると、王子たちがその手を差し伸べてくれた。わたしたちは連れ立って、二つの大門へと歩いていった。わたしは王子の館に住まいを与えられた。館の中には見事なものがそろっていた。涼やかな水浴の場があり、穀倉の実りがあり、宝物庫の財宝があった。王の衣装室の衣、乳香、王と、王の愛する重臣たちのための極上の香油が、部屋という部屋に置かれていた。仕える者たちはみな、それぞれの務めに励んでいた。

若返り

歳月は、わたしの手足から拭い去られた。髪は刈られ、梳られた。積もった垢は砂漠へ、粗末な衣は砂漠を渡る民へと投げ捨てられた。わたしは上等の亜麻布をまとい、エジプトの極上の油を肌に塗り、寝台に横たわった。砂は、その上に住む者たちに返してやった。木の油も、それを塗りたがる者にくれてやった。

わたしには、かつて王の友であった貴人の、召し使いを多く抱える屋敷が与えられた。館には見事な造作が数多くあり、木部はすべて新しくあつらえ直された。宮殿からは、日に三度も四度も食事が運ばれてきた。そのうえ王子たちからの贈り物が、ひとときも絶えることなく届けられた。

ピラミッド

そして、石造りのピラミッドが、あまたのピラミッドの連なりの中に、わたしのために建てられた。造営の長がその敷地を測り、宝物庫の長がそれを記し、聖なる石工たちが墓室の竪穴を穿ち、墓所の工事をつかさどる長たちが煉瓦を運んだ。堅牢な建物のために用いられるあらゆる資材が、そこに惜しみなく使われた。わたしには葬祭に仕える者たちが与えられ、屋敷の前には園と畑がつくられた。第一の王の友に対してなされる、まさにそのとおりに。わたしの像は金で覆われ、その腰布は淡い金で仕上げられた。陛下御自身が、お造らせになったのである。これほどのことをかなえられた並の身分の者は、ほかにいない。

結び

わたしが王の恵みのうちにあり続けますように。死の日が訪れる、その日まで。

これで、書に見いだされたとおり、初めから終わりまでが記し終えられた。

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