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方丈記現代日本語訳

この本の概要

方丈記

現代日本語訳

行く川の流れに人生と住まいの無常を重ね、大火・辻風・遷都・飢饉・地震に揺れた都を見たのち、日野の山に方丈の庵を結んだ鴨長明の随筆。災害と隠棲の記録が、今を生きるための静かな知恵として残る。

『方丈記』の表紙
『方丈記』の表紙

この本の概要

方丈記

現代日本語訳

行く川の流れに人生と住まいの無常を重ね、大火・辻風・遷都・飢饉・地震に揺れた都を見たのち、日野の山に方丈の庵を結んだ鴨長明の随筆。災害と隠棲の記録が、今を生きるための静かな知恵として残る。

0112

序 無常の嘆き

序 無常の嘆き(1)

流れる川は絶えることがない。それでも、そこを流れる水は同じものではない。よどみに浮かぶ泡は、消えたかと思えばまた生まれ、いつまでも残ることはない。この世に生きる人と、その住まいも同じである。華やかな都では、身分の高い人から低い人まで、家々が棟を並べ、屋根瓦の立派さを競っている。代々尽きることなく続くように見えるが、確かめてみれば、昔のまま残る家はめったにない。ある家は去年焼けて今年建て直される。

霞む都を遠くに望み、泡を浮かべて流れる川辺に小さな旅人が立つ
流れは絶えず、水も人も住まいも同じ姿ではとどまらない。

序 無常の嘆き(2)

また、立派だった屋敷が衰え、小さな家に変わることもある。そこに住む人も同じである。場所は変わらず、人も大勢いるのに、かつて顔を合わせた二、三十人のうち、今も残るのは一人か二人にすぎない。朝に死ぬ人がいれば、夕方に生まれる人もいる。まるで水に浮かぶ泡のようだ。生まれて死ぬ人が、どこから来て、どこへ去るのか、私たちにはわからない。また、仮の宿にすぎないこの世で、誰のために心を悩ませ、何のために目を楽しませようとして家を整えるのかもわからない。家の主人と住まいは、どちらが先に消えるかを競っているように見える。

序 無常の嘆き(3)

たとえるなら、朝顔とその花に宿る露のようなものだ。露が先に落ち、花が残ることがある。残った花も、朝日を受ければやがてしぼむ。反対に、花が先にしぼみ、露が残ることもある。それでも露が夕方まで消えずにいることはない。ものの本質を知るようになってから、私は四十年余りを過ごした。その間、世の中で起こる異変をたびたび目にしてきた。今は昔となった、ある年のことから話そう。

0212

安元の大火

安元の大火(1)

安元三年四月二十八日のことだったと思う。風が激しく吹き、落ち着かない夜だった。午後八時ごろ、都の南東から火が出て、北西へ燃え広がった。ついには朱雀門、大極殿、大学寮、民部省などにも燃え移り、一夜のうちにすべて灰となった。火元は樋口富小路あたりだったという。病人を泊めていた仮小屋から出火したらしい。火は吹き乱れる風にあおられてたちまち燃え移り、扇を広げたように末広がりに延びていった。遠くの家々まで煙に包まれた。

夜の都を南東から北西へ扇状に燃え進む火と、煙の下の小さな人影
風に裂かれた火は扇を開くように都へ広がった。

安元の大火(2)

火に近い一帯では、炎が地面へじかに吹きつけていた。空高く舞い上がった灰が火の光に照らされ、あたり一面を赤く染める。その中を、風にちぎられた炎が飛ぶように一町、二町を越え、次々に燃え移っていった。そこにいた人が、平静でいられるはずもない。煙にむせて倒れる人もいれば、炎に包まれてたちまち命を落とす人もいた。かろうじて身一つで逃げられた人も、財産を持ち出す余裕はなかった。あらゆる貴重な品が、そのまま灰になった。

安元の大火(3)

損害がどれほどに及んだか、見当もつかない。この火事では公卿の屋敷が十六軒焼けた。まして、そのほかの家は数えきれない。都全体の三分の一が焼けたという。亡くなった男女は数千人にのぼり、馬や牛も数知れなかった。人の営みはどれもむなしいが、とりわけ、これほど危険な都の中に家を建てようと財産を使い果たし、心を悩ませることは、つくづく割に合わない。さらに、別の災いもあった。

0312

治承の辻風

治承の辻風(1)

同じ治承四年の四月二十九日、中御門京極のあたりで大きなつむじ風が起こり、六条付近まで猛烈に吹き荒れた。三、四町にわたって渦を巻き、その範囲にあった家は、大きなものも小さなものも一軒残らず壊れた。完全に平らにつぶれた家もあれば、梁と柱だけが残った家もあった。門の屋根が吹き飛ばされ、四、五町も離れた場所に落ちたものもある。垣根は吹き払われ、隣の敷地との境さえなくなった。

都を抜ける大きな風の空白に屋根板が舞い、梁だけの家々が残る
風が境を吹き払い、家々には梁と柱だけが残った。

治承の辻風(2)

まして、家の中の品々は残らず空へ巻き上げられた。屋根を葺いていたヒノキの皮や板は、冬の木の葉のように風に舞った。煙のように土ぼこりが吹き上がって何も見えず、すさまじく鳴り響く音にかき消されて、話し声さえ聞こえなかった。地獄で罪人を吹き飛ばす風というものも、これほどだろうと思われた。家が壊れただけではない。修理をする間にけがをし、体に障害が残った人も数えきれなかった。

治承の辻風(3)

この風は南西へ移り、多くの人を嘆かせた。つむじ風そのものは珍しくないが、これほどのものが起こるだろうか。ただの自然現象ではなく、何か大きな力が警告を与えたのではないかと、私は疑った。

0412

福原遷都

福原遷都(1)

さらに同じ年の六月ごろ、突然、都が移された。まったく思いもよらない出来事だった。そもそもこの京都は、嵯峨天皇の時代に都と定められてから、すでに四百年ほどたっている。特別な理由もなく、簡単に変えられるはずのないものだった。それだけに、人々が不安に駆られ、嘆き合ったのも無理はない。だが、何を言ってもどうにもならない。天皇をはじめ、大臣も公卿も残らず、摂津国の福原に設けられた新しい都へ移っていった。

解体した家材を積む筏が川を下り、空き地の増えた古い都から人々が離れる
家々は解かれて川を下り、古い都には空き地が残った。

福原遷都(2)

朝廷に仕えるほどの人で、誰が一人、古い都に残っていられただろう。官位を望み、主君の後ろ盾を頼る人々は、一日でも早く移ろうと競い合った。時流に乗れず、世間から取り残され、先の見込みもない者だけが、嘆きながら残った。かつて軒の高さを競った家々は、日がたつにつれて荒れていった。建物は解体され、淀川に浮かべて運び去られ、屋敷の跡は見る間に畑へ変わった。人々の好みもすっかり変わり、牛車ではなく馬や鞍ばかりが重んじられた。

福原遷都(3)

人々は西や南の海に近い領地ばかりを望み、東国や北国の荘園を好まなくなった。そのころ、たまたま用事があって、摂津国の新しい都へ行く機会があった。実際に見ると、土地は狭く、都らしく碁盤の目に区画するには足りない。北は山に寄り添って高く、南は海に近づくにつれて低くなる。波の音がいつも騒がしく、潮風はことのほか激しい。内裏は山中にあり、古代の丸木造りの御殿もこのようだったかと思われるほどだったが、かえって風変わりで趣のあるところもあった。

福原遷都(4)

古い都では家が毎日取り壊され、川を埋め尽くすほど次々に運び下されていた。だが、その材木で新しい家はいったいどこに建てられたのだろう。空き地ばかりが多く、建てられた家は少ない。古い都はすでに荒れ、新しい都はまだ整っていなかった。そこに暮らす人は誰もが、行き先の定まらない浮雲のような気持ちだった。もとから住んでいた人は土地を失って嘆き、新たに移ってきた人は家を建てる苦労を嘆いた。道を見ると、以前なら牛車に乗る身分の人が馬に乗り、公家らしい装束を着るはずの人も、多くが武士のような直垂を着ていた。

福原遷都(5)

都の風俗はたちまち変わり、田舎の武士と少しも変わらなくなった。これは世の乱れの前触れだろうか。以前から聞いていた言葉が現実になったかのように、日がたつほど世の中は落ち着きを失い、人の心も静まらなかった。人々の嘆きは結局、聞き流せないものとなり、同じ年の冬、天皇は京都へ戻った。しかし、解体して運び出した家々がどうなったのか、すべてが元どおりに建て直されたわけではない。昔の賢明な天皇の世について、かすかに伝わる話がある。

福原遷都(6)

その天皇は民を思いやりながら国を治めた。宮殿の屋根を茅で葺き、軒先すら整えなかったという。人々の家から炊事の煙がほとんど上がらないのを見ると、決められた税さえ免除した。民に恵みを与え、世を救おうとしたからである。今の世のありさまは、この昔の話と比べればよくわかる。さらに、次のようなことも起きた。

0512

養和の飢饉

養和の飢饉(1)

養和年間のことだったと思う。ずいぶん前なので、はっきりとは覚えていない。二年にわたって世の中が飢饉に襲われ、目も当てられない状態になった。春と夏には日照り、秋と冬には暴風や洪水というように、災害が次々と続き、穀物はまったく実らなかった。春に田を耕し、夏に苗を植えても、ただ労力がむなしく消えるだけで、秋に刈り、冬に収穫するにぎわいはなかった。そのため、各地の農民は土地を捨てて国境を越え、家を離れて山に住む者もいた。さまざまな祈祷が始まり、普段なら行わない特別な仏事まで営まれたが、何の効果もなかった。

水のない田と実らない稲の間を、家を離れた人々が山へ向かう
田は実らず、炊煙は絶え、人々は土地と家を離れた。

養和の飢饉(2)

都は何をするにも地方からの物資を頼りにしている。運び込まれるものが完全に途絶えれば、いつまでも平静を装ってはいられない。人々は苦しみに耐えながら、さまざまな宝物を片端から投げ捨てるような値で売ろうとした。それでも、目を留める人さえいない。たまに買い手が現れても、金銭を軽く見て、穀物を何より重んじた。道端には物乞いがあふれ、嘆き悲しむ声が耳を満たした。最初の年はこのような状態で、ようやく暮れた。新しい年になれば立ち直れるかと期待したが、事態はさらに悪くなった。

養和の飢饉(3)

そのうえ疫病まで重なり、回復の兆しはまったく消えた。人々は次々に飢え死にし、日を追うごとに追い詰められていった。その姿は、水の少ない池で息絶えようとする魚そのものだった。しまいには、笠をかぶり、脚絆を巻き、まだきちんとした身なりの人が歩いていると思っても、たちまち道に倒れた。土塀のそばや道端には、飢えて死んだ人が数えきれないほど横たわっていた。遺体を片づける方法もなく、腐敗した臭いが町中に満ちた。遺体が変わっていく様子には、目を背けずにいられないものが多かった。

養和の飢饉(4)

とりわけ河原などはひどく、馬や車が通る道さえ残っていなかった。身分の低い労働者や山で働く木こりも力尽き、薪まで不足していった。ほかに頼るもののない人は自分の家を壊し、材木を市場へ持ち出して売った。それでも、一人で運べるほどの材木の代金では、一日の命をつなぐことさえできなかったという。不思議なことに、薪の中には、朱色の塗料や金銀の箔が所々に残る木片が混じっていた。

養和の飢饉(5)

事情を調べると、追い詰められた人々が古寺へ入り、仏像を盗み、堂内の仏具を壊して割り砕いたものだった。このような濁った悪い時代に生まれ、これほど痛ましい行いを目にすることになった。ほかにも、胸を締めつけられる出来事があった。離れがたい夫婦や恋人がいる場合、相手をより深く思い、自分を後回しにする人が、必ず先に死んだ。自分よりも、愛する相手をいたわろうとしたからである。

養和の飢饉(6)

たまたま物乞いで得た食べ物も、まず相手に譲ったからだ。同じように、親子の場合は決まって親が先に死んだ。父や母がすでに息絶えて横たわっているとも知らず、幼い子がその乳房に吸いついたまま倒れていることもあった。仁和寺の慈尊院にいた大蔵卿隆暁法印という僧は、こうして数えきれない人が死ぬことを悲しみ、多くの僧に協力を呼びかけた。そして、遺体を見つけるたびに弔うことにした。

養和の飢饉(7)

僧たちは死者の額に、阿弥陀仏の最初の文字である「阿」と書き、仏との縁を結ばせた。隆暁法印が死者の数を知ろうとして、四月と五月の二か月ほど数えさせたところ、都の一条より南、九条より北、京極より西、朱雀より東の範囲で、道端から見える遺体だけでも四万二千三百余りにのぼった。前後の時期に死んだ人も多い。河原、白川、西の京、そのほか都の周辺まで加えれば、数に限りはない。まして、全国の諸国で亡くなった人は、どれほどだっただろう。もっと近い時代にも、同じような例があったという。

養和の飢饉(8)

崇徳天皇の在位中、長承年間にも、このような飢饉があったと聞く。しかし、その時代の実情を私は知らない。私が実際に目にしたこの飢饉は、まれに見るほど悲惨で、深く心を痛める出来事だった。さらに、もう一つ大きな災害があった。

0612

元暦の地震

元暦の地震(1)

元暦二年ごろ、大地震が起きた。その激しさは並大抵ではなかった。山が崩れて川を埋め、海が傾いたかと思うほど波が陸を浸した。地面が裂けて水が湧き出し、岩が割れて谷へ転がり落ちた。岸近くを進む船は波に翻弄され、道を行く馬は足元が定まらず立ち往生した。まして都の近くでは、寺院や社殿、塔や墓に至るまで、無事な建物は一つもなかった。崩れたり倒れたりするたびに、土ぼこりと灰が立ち上り、濃い煙のように空を覆った。

裂けた地面と崩れた山に川がせき止められ、傾いた寺塔の周囲に土煙が立つ
山は崩れ、地は裂け、都の塔も墓も無事ではなかった。

元暦の地震(2)

大地が震え、家が壊れる音は雷と変わらなかった。家の中にいれば、今にも押しつぶされそうになる。外へ走り出せば、今度は地面が裂ける。羽がないので空へ逃げることはできず、竜でもないので雲へ上ることもできない。世に恐ろしいものは多いが、その中でも地震ほど恐ろしいものはないと思い知らされた。ある武士に、六、七歳ほどの一人息子がいた。その子は築地塀の屋根の下に小さな家を作り、取りとめのない子どもの遊びに夢中になっていた。

元暦の地震(3)

すると突然、塀が崩れて子どもを埋め、平らに押しつぶした。姿は跡形もなくなり、両目だけが三センチほど外へ押し出されていた。父母はその子を抱き、声を抑えることもなく泣き悲しんだ。その姿は、見るに耐えないほど痛ましかった。子を失った悲しみの前では、勇敢な武士も人目を気にする心を忘れる。それは当然のことだと、深く胸を打たれた。これほど激しい揺れはいったん短時間で収まったが、余震は何度も途切れずに続いた。

元暦の地震(4)

普段なら驚くほどの地震が、一日に二十回、三十回と起きない日はなかった。十日、二十日とたつにつれて、ようやく揺れの間隔が開き、一日に四、五回、二、三回、あるいは一日おき、二、三日に一度となった。余震は、およそ三か月続いたと思う。世界を形づくる地・水・火・風のうち、水と火と風はたびたび災いを起こすが、大地がこれほどの異変を起こすことはない。昔、斉衡年間にも大地震があり、東大寺の大仏の頭が落ちるなど大変な被害が出たという。それでも、今回ほどではなかったそうだ。

元暦の地震(5)

地震の直後、人々はこの世のむなしさを口々に語った。心の濁りも少しは薄らいだように見えた。だが、月日が重なり、年が改まるころには、地震のことを話題にする人さえいなくなった。

0712

世の住みにくさ

世の住みにくさ(1)

このように、世の中はまことに住みにくい。自分の体も住まいも、はかなく頼りないものである。しかも、住む場所や身分によって生じる悩みは、挙げればきりがない。たとえば、身分の低い人が権力者の屋敷のそばに住めば、深くうれしいことがあっても、思いきり楽しむことができない。悲しいことがあっても、声を上げて泣くことはできない。進むにも退くにも気が休まらず、立つにも座るにも恐れて身を縮めている。

世の住みにくさ(2)

それは、鷹の巣のそばに近づいた雀のようなものだ。貧しい人が裕福な家の隣に住めば、朝夕、自分のみすぼらしい姿を恥じ、へつらいながら出入りする。妻や子や使用人が隣家をうらやむ様子を見ても、裕福な家の人が自分たちを見下す気配を感じても、心は絶えず揺れ動き、ひとときも安らげない。家が密集した場所に住めば、近くで火事が起きたとき被害を免れない。人里離れた場所に住めば、行き来が不便なうえ、盗賊の危険も大きい。

世の住みにくさ(3)

権勢のある人は欲が深くなり、身寄りのない人は軽く扱われる。財産があれば失う不安が増し、貧しければ苦しい嘆きが絶えない。人に頼れば、その人の言いなりになる。人を養えば、情に縛られる。世間に合わせれば自分が苦しくなり、合わせなければ変人のように見られる。いったいどこに住み、何をして暮らせば、ほんのしばらくでもこの身を置き、わずかな間でも心を慰められるのだろう。

0812

出家まで

出家まで(1)

私は父方の祖母から家を受け継ぎ、長い間そこに住んでいた。その後、その家との縁が切れ、自分の境遇も衰えた。忘れがたい思い出はいくつもあったが、とうとう家を守り続けることができなくなった。三十歳を過ぎたころ、自分の考えで新たに一つの庵を建てた。以前の住まいと比べれば、広さは十分の一ほどしかない。自分が暮らす部屋だけを作り、きちんとした付属の建物までは設けなかった。わずかに土塀を築いたものの、門を建てる費用はない。竹を柱にして、牛車を入れる簡単な小屋を作った。

出家まで(2)

雪が降り、風が吹くたびに、倒れはしないかと不安になった。河原に近い場所だったため、洪水の危険も、盗賊への不安も大きかった。思うようにならない世の中を耐えて生き、心を悩ませた年月は三十年余りになる。その間、物事が期待どおりに進まない経験を重ね、自分の運が乏しいことを自然と悟った。そこで五十歳の春を迎えたとき、家を出て世間に背を向けた。もともと妻も子もいなかったので、捨てがたい縁はない。官職も収入もなかった。何に執着を残す必要があるだろう。

出家まで(3)

そうして大原山の雲の中に身を置き、むなしく五年の歳月を過ごした。

0912

方丈の庵

方丈の庵(1)

六十歳となり、露のような命も消えかけたころ、晩年を過ごすための住まいを新たに建てた。旅人が一晩だけの宿を作り、年老いた蚕が最後の繭を作るようなものだ。中年のころの住まいと比べれば、百分の一にも届かない。あれこれするうちに、年齢は年ごとに高くなり、住まいは移るたびに狭くなった。この家は普通の造りではない。広さは方丈、すなわち一丈四方で、高さは七尺にも満たない。一か所に住み続けるつもりがないので、土地を恒久的に占める基礎は作らなかった。

日野山の木々と筧の水に囲まれた一丈四方の小さな庵に、老いた僧が座る
老いた蚕が最後の繭を作るように、一丈四方の仮の庵を結んだ。

方丈の庵(2)

組んだ土台の上に簡単な屋根を載せ、継ぎ目ごとに金具を掛けた。気に入らないことがあれば、簡単にほかの場所へ移せるようにしたのである。建て直すにも、たいした手間はかからない。全部積んでも荷車二台分ほどで、車を借りる代金のほかに費用はいらない。日野山の奥に身を隠してからは、庵の南に仮の日よけを張り出し、竹のすのこを敷いた。その西側に、仏前へ水を供える棚を作った。室内では、西の壁に沿って祈りのための場所を設けた。

方丈の庵(3)

そこに阿弥陀仏の絵を安置し、沈む夕日の光を受けて、仏の眉間から放たれる光に見立てた。厨子の扉には、普賢菩薩と不動明王の絵を掛けた。北側の障子の上に小さな棚を作り、黒い革張りの箱を三、四個置いた。中には、和歌や音楽の本、『往生要集』などから抜き書きしたものを入れた。そばには箏と琵琶を一面ずつ立てた。折り畳める箏と、継ぎ合わせ式の琵琶である。東側にはワラビの穂綿を敷き、その上にむしろを重ねて寝床にした。東の壁には窓を開けた。

方丈の庵(4)

窓のところに文机を置いた。枕元には炭を入れる炉があり、柴を折って燃やすのに使った。庵の北側には少し土地を取り、簡素な低い垣根で囲って庭とした。そこにさまざまな薬草を植えた。仮住まいの様子はこのようなものだった。周囲についていえば、南には竹の樋で引いた水が流れ、石を積んだところに水をためている。林が軒近くまで迫っているので、焚き木を拾うのにも困らない。この地は外山と呼ばれる。つる草が生い茂り、ここへ来た跡を覆い隠している。

方丈の庵(5)

谷は木々が深く茂っているが、西の方角だけは開けている。西方浄土へ思いを向け、心を静めるにも都合が悪くない。

1012

庵の四季と日々

庵の四季と日々(1)

春には波のように連なる藤の花を見る。その紫色は、極楽からたなびく雲のように、西の方角を美しく染める。夏にはホトトギスの声を聞く。鳴くたびに、死後の世界へ続く山道で会おうと語りかけられるようだ。秋にはヒグラシの声が耳いっぱいに響く。短い命しか持たないこの世を悲しんでいるように聞こえる。冬には雪の美しさに心を寄せる。積もっては消える姿は、人の罪が重なり、やがて消えていくことにもたとえられる。念仏を唱えるのがおっくうになり、経を読むことに身が入らないときは、自分の判断で休み、怠ける。それを邪魔する人も、恥ずかしいと思わせる友人もいない。

雪に包まれた古い庵と山林を、小さな僧が竹の簀子から静かに眺める
冬には、積もっては消える雪の姿に心を寄せた。

庵の四季と日々(2)

あえて沈黙の修行をしているわけではないが、一人で暮らしていれば、口から生まれる過ちを自然と抑えられる。戒律を必ず守ろうと固く決めたわけでもない。それでも、心を惑わす環境がないのだから、何をきっかけに破ることがあるだろう。朝、船の跡に立つ白波を眺めるときは、岡の屋を行き交う船を見た僧、満誓の思いに心を重ねる。夕方、桂の木を渡る風が葉を鳴らすときは、中国の潯陽江で琵琶を聞いた物語を思い浮かべ、源経信の風流にならう。気分が乗れば、松を鳴らす風に合わせて『秋風楽』を弾き、水の音に合わせて『流泉』を奏でる。

庵の四季と日々(3)

私の芸は未熟なので、人に聞かせて喜ばせようというのではない。一人で楽器を奏で、一人で歌い、自分の心を養うだけである。山のふもとには、柴で作ったもう一つの庵がある。山の番人が住むところだ。そこには少年がいて、ときどき私を訪ねてくる。退屈なときには、その子を友として一緒に歩き回る。彼は十六歳、私は六十歳で、年齢は大きく違う。それでも、心を楽しませるものは同じである。チガヤの穂を抜き、岩梨の実を採る。山芋のむかごをかごに入れ、セリを摘む。

庵の四季と日々(4)

山の裾の田へ下り、落ち穂を拾い、穂のついた藁を束ねることもある。日差しが穏やかな日には峰へ登り、遠く故郷の空を眺める。木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師まで見渡せる。美しい景色には持ち主がいないので、心を慰めるのを妨げるものはない。歩くことが苦にならず、もっと遠くへ行きたくなれば、連なる峰をたどって炭山を越え、笠取を過ぎる。岩間寺へ参詣したり、石山寺を拝んだりもする。粟津の原を横切って、琵琶の名手だった蝉丸の旧跡を訪ね、田上川を渡って、歌人の猿丸大夫の墓を訪れることもある。

庵の四季と日々(5)

帰り道には、季節に応じて桜の枝を手折り、紅葉を集め、ワラビを摘み、木の実を拾う。一部は仏に供え、一部は土産にする。夜が静かなときは、窓から差す月を見て昔の人を思い、猿の声を聞いて涙で袖をぬらす。草むらの蛍は、遠く真木島で燃える漁火のように見える。明け方の雨は、風に吹かれる木の葉の音に似ている。山鳥が「ほろほろ」と鳴くのを聞けば、亡くなった父や母の声ではないかと思う。峰の鹿が人を恐れず近くまで来ると、自分が世間からどれほど遠ざかったかを実感する。

庵の四季と日々(6)

夜中に目を覚ましたときは、灰に埋めておいた火をかき起こし、老いた身の夜の友とする。恐ろしい山というわけではないが、フクロウの声にも心を動かされる。山中の眺めや音には、季節ごとに尽きない味わいがある。まして、深く考え、物事をよく理解できる人なら、私が述べたことだけにとどまらず、さらに多くを味わえるだろう。初めてここに住んだときは、ほんのしばらくのつもりだった。それが、もう五年になる。仮の庵も少しずつ古び、軒下には落ち葉が深く積もり、土台には苔が生えた。

庵の四季と日々(7)

何かのついでに都の様子を尋ねると、私がこの山にこもってからも、身分の高い人が大勢亡くなったと聞く。名も知られない普通の人となれば、とても数えきれない。たび重なる火事で焼けた家も、どれほどあるかわからない。ところが、この仮の庵だけは穏やかで、危険もない。狭くても、夜に横になる場所と、昼に座る場所がある。一人の身を置くには十分だ。ヤドカリは小さな貝殻を選ぶ。それは、自分の体に合う大きさを知っているからである。

庵の四季と日々(8)

ミサゴは人けのない荒磯に巣を作る。人を恐れるからだ。私も同じである。自分の身の程と世の中のあり方を知っているので、多くを望まず、人と交わろうともしない。ただ静かであることを望み、心配がないことを楽しみとする。世間の人が家を建てるのは、必ずしも自分のためだけではない。妻や子や一族のために建てる人もいれば、親しい友人のために建てる人もいる。主君や師匠のため、さらには財宝や馬や牛を置くためにまで家を作る。私は今、自分一人のためにこの庵を結び、ほかの誰のためにも作らない。それには理由がある。

庵の四季と日々(9)

今の世の中で、このような暮らしをする私には、共に住む人も、頼りにする使用人もいない。たとえ広い家を建てても、誰を泊め、誰を住まわせるというのか。人が友を選ぶときは、裕福な人を重んじ、自分に親しげな人を優先する。必ずしも思いやりのある人や、正直な人を愛するわけではない。それなら、音楽や花や月を友とする方がよい。人が他人に仕えるときは、褒美と罰の大きさを気にし、主人から手厚く扱われることを重んじる。たとえこちらが養い、思いやったとしても、静かで自由な暮らしが得られるとは限らない。

庵の四季と日々(10)

それなら、自分自身を自分の使用人とする方がよい。しなければならないことがあれば、自分の体を使う。面倒なときもあるが、人を使い、その人の気持ちに配慮するよりは楽である。出かける必要があれば、自分の足で歩く。疲れはするが、馬や鞍や牛車のことで心を悩ませるよりはよい。一つの体を二つの用途に分け、手を使用人とし、足を乗り物とする。どちらも自分の思いどおりに動いてくれる。心の方も、体が苦しんでいることをよく知っている。

庵の四季と日々(11)

体が疲れたときは休ませ、元気なときは働かせる。働かせるといっても、無理を続けることはない。気が進まなくても、思い悩まない。いつも歩き、体を動かすことは、健康を保つ助けにもなる。何もせず休んでばかりいる必要がどこにあるだろう。人を苦しめ、悩ませることは罪でもある。どうして他人の力を借りる必要があるだろう。衣服や食事も同じだ。藤づるの繊維で作った衣と麻の寝具で、手に入るものに応じて肌を覆う。野に生えるチガヤの若芽や峰の木の実で、わずかに命をつなぐだけである。

庵の四季と日々(12)

人づきあいをしないので、身なりを恥じて後悔することもない。食べ物が乏しければ、粗末なものでも甘くおいしく感じる。こうした楽しみを、裕福な人に向かって勧めようというのではない。ただ、自分一人について、昔の暮らしと今の暮らしを比べているだけだ。世間から離れ、地位や財産への執着を捨ててからは、恨むことも恐れることもなくなった。命は運命に任せ、失うことを惜しまず、早く終わってほしいとも思わない。自分の体を空に浮かぶ雲のように見て、当てにすることも、先を急ぐこともしない。生涯の楽しみは、ほとんど一つに絞られた。

庵の四季と日々(13)

私の楽しみは、うたた寝をするときの枕の上に尽きている。生きている間に望むものは、季節ごとに現れる美しい景色だけである。

1112

閑居の心

閑居の心(1)

この世界は、すべて自分の心の持ち方一つで変わる。心が安らかでなければ、牛や馬やどれほどの宝があっても役に立たない。立派な宮殿や高楼も欲しいとは思わない。私は今、この寂しい一間の庵を心から愛している。たまに都へ出れば、物乞いのようになった自分の姿を恥ずかしく思う。しかし、ここへ帰ると、今度は世俗の欲にとらわれている人々を気の毒に思う。私の言葉を疑う人は、魚と鳥の暮らしを見ればよい。魚は水に飽きることがない。魚でなければ、その気持ちはわからない。鳥は林にいることを願う。

閑居の心(2)

鳥でなければ、その気持ちはわからない。静かな場所で独り暮らす味わいも同じである。実際に住んでみなければ、誰に理解できるだろう。

1212

結び

結び(1)

考えてみれば、私の一生を照らしてきた月はすでに傾き、残された時間も山の端へ沈もうとしている。私はまもなく、死後の暗い道へ向かうだろう。今さら何について不満を言おうというのか。仏の教えは、どんなことにも執着してはならないというものだ。この草の庵を愛することも罪になり、静かな独り暮らしに執着することも、悟りへの妨げになるだろう。役にも立たない楽しみを並べ立て、貴重な時間をむだにしてよいのか。静かな夜明けにこの道理を考え続け、自分の心に問いかけた。世間を離れ、山や林で暮らすのは、何のためなのか。

夜明けの山の端へ傾く月の下、草庵のそばで小さな僧が座る
一生の月は山の端へ傾き、庵への愛着さえ心に問い直す。

結び(2)

それは、心を整え、仏の道を実践するためである。ところが、姿は僧に似ていても、心は濁りに染まっている。住まいは、清らかな庵で修行した維摩居士にならったつもりでも、その実践は、最も愚鈍とされた仏弟子、周利槃特にさえ及ばない。これは、貧しく身分の低い境遇に生まれた報いが私を悩ませているのか。それとも、迷いの深い心が私を狂わせたのか。そのとき、心は何も答えなかった。ただ、舌を動かすに任せ、自然に口をついた念仏を二、三度唱えて終わった。時は建暦二年三月の末日ごろである。

結び(3)

出家して蓮胤と名乗る私が、外山の庵でこれを書いた。

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